To Belong Essays ■ 荒谷大輔

Rondes de Discours
~哲学はダンスを踊れるか~

 

荒谷大輔・プロフィール
荒谷大輔江戸川大学社会学部人間心理学科准教授、専門は哲学/倫理学。主な著書に『「経済」の哲学:ナルシスの危機を越えて』(せりか書房)、『西田幾多郎:歴史の論理学』(講談社)など。学生時より自分の身体に課された現代社会の軛(くびき)にほとほとウンザリしながら、全く動かない身体で不器用に脱出を試みる。なお不自由ながら、道々に出会った人々との関係を支えに、コンテンポラリーダンス業界に関わる。

北村明子『To Belong』分析の試み[1]

コンテンポラリーダンスによる「意味」の排除
北村明子作品、あるいはコンテンポラリーダンスの作品一般は、意味のよくわからない難解なものだろうか?ここでは、2012年9月、日本で公演された北村明子作品『To Belong - dialogue-』を分析してみたい。直接的な背景としては、スタディグループ内で行った筆者の発表があるが、本務校で毎年開いているダンス論がもとになっている。

さて、冒頭コンテンポラリーダンスは「意味がわからない」といったが、実のところそれは、コンテンポラリーダンスが用いている戦略のひとつであり、目的ですらある、といっても差し支えないかもしれない。つまり、作品の「意味」がすんなりと理解されてしまわないこと自体が目指されているのだ。耳で聞いて平易に理解できる言葉すらテロップで流して「理解」を求める今日のメディアの一般的なあり方に比して、何とも意地の悪い、と思われるかもしれないが、そこには、意味の了解の暴力に抗するという、現代アート全体が関わる問題がある。北村作品分析という主題からあまりに外れるので深くは立ち入らないが、モダニズムの一派において強く求められた、深いところでの共感という芸術の主題への対抗である。

産業化が進み、労働者の身体が経済の歯車のひとつに組み込まれる傾向が強まるにつれて、疎外的な社会とは異なる次元でともに繋がり合う欲望が強まる。例えば、ヒトラーを熱狂的に迎え入れ「血」の結束を求める社会的な運動を生み出したのも、その時代の欲望であった。今では負のイメージしかない「ファシズム(団結主義)」という言葉も、当時は肯定的な色彩を帯びていた。その時代の芸術は、政治に取り込まれるか/迫害されるか、という決定的な差異を含みながらも、大きく深層における象徴的なものの共有という文脈では通じていたのである。

だが、芸術を媒介とした「深いところでの共感」が、内/外の区別を強く刻み込む共同性の論理として機能するとき、それは暴力として機能しうる。例えば、ヒトラーのお抱えだった作家の作品が隆起させる精液まみれの男性性を前に、血の奥底に眠るアーリア人の象徴を「理解」することができるかどうかは、ひとを大きな政治的な力で規定した。芸術がもつ「意味」の了解は、そこでは、内における強固な団結を生むと同時に、外に対する差異を印づけるものでもあったのである。

こうした暴力が過ぎ去った後、いわゆるポストモダンアートが「意味」として理解されるものの枠組みを解体しようと試みたことは、それゆえ、自然な流れであった。ここでは一例を挙げるに留めるが、ルシンダ・チャイルズの『カーネーション』は、例えば、日用品が用いられる文脈を剥ぎ取り、純粋なかたちだけの「無意味」を提示したことにおいて、すぐれて「ポストモダン」な芸術であったといえる。

こうした流れの中でコンテンポラリーダンスは自然、直接的な「意味」の伝達を回避し、作品のメッセージ性に対して常にメタ的な立場に立つ、という傾向をもつことになる。コンテンポラリーダンスが「わかりにくい」のは、それ自体が直接的な伝達を迂回したものであるからなのだ。

だが、「意味」の排除、あるいは「無意味」への志向という試みには、自然と限界がある。というのも、「意味」の枠組み自体を解体することが「目的」として機能しうるのは、あらかじめ「意味」が共有されている場合に限られるからだ。ポストモダンの「実験」が、ひとしきり済んでしまった現在では、「意味」の回避という身振りは、コンテンポラリーダンスが、コンテンポラリーなアートとして自らを認めてもらうための名刺に成り下がっているようにも思われる。単に現代アートというコミュニティに参加するための手段としてしか機能しないものであれば、それは形式の解体ということ自体を形式として固めていることになる。
(「北村明子『To Belong』分析の試み[2] 物語ることの身体性」につづく)

北村明子『To Belong』分析の試み[2]

物語ることの身体性
北村明子北村明子の『To Belong』は、こうした流れの中で、基本的なコンテンポラリーダンスの文法を踏まえながらも、果敢にタブーを乗り越える道筋を示している。作品中に全体の流れを統制するような「物語」を導入することは、本来、個々の振付に「意味」を与えて了解へと至らせる道具として用いられることで、コンテンポラリーダンスでは回避されるべきものと位置づけられる。例えば、マーサ・グレアムの『夜の旅』は、オイディプス王の物語を軸として、ひとつひとつの身体表現の象徴性をひとりの女性の悲劇へと統合することに成功したが、そのような手法は、情感に満ちた「了解」へと観客を誘う限りにおいて、なお回避の対象となる。北村作品は、しかし、物語ること自体を芸術の形式とするワヤン・クリとの共同において、そこから物語の暴力性を排除することに成功している。

物語が暴力として機能するのは、「意味」の了解において外部が排除されることによるが、それは、物語られた内容に「すべて」が統合されるからにほかならない。「すべて」のものが、核となるひとつの「意味」を展開することで了解できるとするならば、重要なのはその「意味」をつかむことだけで、それぞれの要素がもつ固有性に対する関心は損なわれる。言葉によって物語られたもので「意味」が理解されるならば、個々の身体表現によってそれ以上冗長に何かを示す必要はないのである。

北村作品は、しかし、物語られた内容ではなく、物語るという行為自体に焦点をあてることで、物語の禁忌を乗り越える。語り手の言葉が「意味」を結実する手前、「語ること」自体を身体表現としてダンスに組み入れているのである。画面いっぱいに映し出されたグンドノの「語り」は、母親の喪失という悲劇を謡う。記憶を振り返るかたちで掘り起こされる悲壮な叫びは、観客の意識の底にある深い象徴を揺り動かす力を持っている。だが、その揺さぶりは、「意味」へと到達する手前で宙に放られる。そこで問題とされるのは、「母の喪失」をもたらした構造でもなければ、それをともに悲しむことでもない。それは森の風のように流れ去り、はじめから何にもなかったかのように、過ぎ去っていくだけである。そこにはしかし、語ることによって喚起されたかすかな響きが、無言の幽霊のようにたたずむのである。

その響きは、作品全体を通じて基底音のように鳴り続けるだろう。時にかき消され、時に無音で立ち上がりながら、それは作品全体に立籠める空気となる。だが、そうした響きの通用性は、作品全体の「意味」を統制的に規定し、個々の振付の固有性を損なわせるようなものではなく、反対にダンサーの個々の身体にまとわりついて、そこから身体の強度を引き出す機能を果たす。物語るという行為自体による「ダンス」は、こうして、ポストモダンの物語アレルギーを越えて、作品の中で重要な役割を担うことになるのである。

このエントリーでは、『To Belong』における「物語」の機能について考察を行った。続きが(一応)予定されている「北村明子『To Belong』分析の試み[3]」では、また異なる観点から分析を行うことにしたい。

北村明子『To Belong』分析の試み[3]

おのずから剣が立つ
前回までのエントリーで、北村明子作品『To Belong』の振付において、具体的にどのような要素が、観る者へと直接的に語りかける力をもつのかを見てきた。社会的コードによって規定された反復可能な要素の再現を伝達するのではなく、振付が意味を結実する手前、それを踊るダンサーの主体性自体がそこから立ち上がってくるような場が提示されることが、近代的なコミュニケーションの枠組みを超える可能性を示していたのである。予告してあったエントリーの最後となる今回は、『To Belong』という作品全体を通じたテーマとなっているものを探りたい。[1][2]で見てきたような手法を用いることで北村は作品全体にどのような力をもたせようとしたのだろうか。その一端をつかむのが今回の課題となる。

全体を通じて明確に読み取れる作品の主題として、インドネシアと日本の文化的対話を挙げないわけにはいくまい。作品の一場面ではインドネシアのダンサーと日本のダンサーによる対話が描かれており、その視点は、インドネシアという「他者」をどのように翻訳するか、という日本の側におかれている。こうしたシーンの挿入は、あるいは、観客の側の日常性に即した作品への導入のための「サービス」のようなものとして置かれているのかもしれない。日本という社会構造で紡がれる「物語」の中に身を浸している観客にとって、[1][2]で見てきたようなコンテンポラリーダンスの文脈で練り上げられた手法は、効力を発揮する手前で謝絶される危うさを持っている。近代的なコミュニケーションの枠組みを超えた力の提示は、しかし、それを観る者の側で「近代日本」という枠組みが堅持される限り、創造的な力を持ちえないのである。インドネシアという「他者」との対話という主題は、日常的な物語の範疇においても「わかりやすい」かたちで、観客における「近代」という硬い殻をたたきうる。作品全体を通じて流れている対話の主題を、ダンスが持ちうる力へと観客を導く「道具」と考えることは、あるいは穿った見方であるかもしれない。

しかしもう一点、上の主題ほどわかりやすくはないものの、『To Belong』という作品の縦糸となっているものに「命の吹き込み」がある。作品中、グンドノの語りが、無機物を含めたあらゆるものに生命を吹き込むものとして位置づけられていること、あるいは作品中とりわけ印象的なシーン、壊れたマリオネットのような動きをするダンサーが、他のダンサーとの「コミュニケーション」の中で少しずつ生気を帯びてくることなど、「命の吹き込み」をおもわせる要素が互いに連携しながら作品を編んでいると考えられる。そこには、いまだ「主体」となる手前にあるもの、「語ること」自体によって「生命」が付与されるあり方が、作品自体のテーマとして描かれているのである。

「クリス」と呼ばれるインドネシアの短剣は、見えない力によっておのずから動くと信じられているという。聖剣として奉られるそれは、普段は無機物として身を横たえているが、ひとびとの祈りとの同調の中で、おのずから踊り出す。だが、そこで短剣に命を吹き込むものはいったい何なのか。『To Belong』の中で芽吹き伝播する力こそ、その問いに対する答えだといえるだろう。そこで問題となっているのはもちろん、何らかの超自然的な力ではない。神話の中で語られる「神秘」が、その「神秘」を共有するメンタリィの中でしか発現しえないことは、精神分析以後、否定しえない事柄となっている。だが、同じ事柄の裏面は、「語ること」の力が共有される場面においては、剣がおのずから立ち上がるのを人々がリアルに知覚しうる、ということを意味している。「近代」の枠組みにおいて「主体」なるものの存在が無根拠に信じられているように、物語る力の共有は、さまざまなものの実体を幻想のうちに紡ぎあげる。問われるべきことは、それゆえ、人々にそのような幻想を抱かせる力とは何なのかということなのである。近代的なコミュニケーションの枠組みを超えて提示される北村明子のダンスは、極めて直接的な仕方で、剣がおのずから立ち上がることを人々に信じさせる力が実際にどのようなものであるかを示しているといえよう。

ダンスと哲学[01]

「言語的なもの」の伝達可能性
ダンスと哲学のあいだの関係について、一般的には(たぶん哲学だけを専門にしている人にも)あんまり知られていないことだと思うので、ちょっとまとめて書いてみようと思います。

ダンスは身体を動かすものだし、哲学はどっちかといえば理念をこねくり回しているイメージなので、一見するところ全然違う営みに見えますが、両方に関わってきた立場(専門は哲学でダンスは遊び程度ですけど)からすると、両方とも「言語的なもの」をベースにしている点で結構同じところを目指していると思えます。「言語」じゃなくて「言語的なもの」というのがポイントで、実際ダンスの振付も、よく「動きのボキャブラリー」とか言語との比較で語られることはあっても、それが通常の意味での「言語」と同じものとは考えられませんよね。だって、ダンスが言葉を伝えるものでしかないとしたら、言葉を話した方がよっぽど早いのですから。

それでもしかし、ダンスは「言語的なもの」を芸術表現のベースにしていると思います。こういえば分かりやすいでしょうか。赤ちゃんが言語を習得するとき、はじめの段階では常に身体のゼスチャーが伴っています。他人に何かを伝えようとするのですが、まだ顎などが発達しておらず言葉を分節化することができません。「あーっ、あーっ」などと言いながら、一生懸命に身体を使って表現するのです。発話のための器官ができあがっていないだけで、ある程度知能は発達していますから、例えばこの段階の幼児に手話を覚えさせると、言語を習得する以前からかなり明度の高いコミュニケーションが可能なことが知られています。なので、その手の教育に熱心な親は自分でも手話を覚えて子供と会話し、早期教育を実現しようとしていますよね。ここで重要なのは、特に約束事としての手話を覚えさせなくても、ある程度のコミュニケーションであれば、身体を分節化して表現することで伝わるという点です。「言語的なもの」は、「言語」の手前で、相互の意志伝達の可能性を開いているわけですね。ダンスは、いってみれば、この次元での「言語的なもの」をあてにしてコミュニケーションをはかる芸術の形式だと思うのです。ダンスの動作は、ひとつひとつ表情をもっているわけですが、ひとつひとつの動きをそれぞれ対応する言葉に翻訳し直すことはできません。それでもなお、それはいわば「言語的なもの」として、伝達可能性をもっているわけですね。

で、他方の哲学は何をするかといえば、これは多分ちょっともう少し話をすすめないと漠然とした感じだと思うのですが、ひとことで言えば、この「言語的なもの」を言葉で何とか語り出そうとする営みだといってよいように思います。哲学といえば、「人生の意味」とか「世の中の真理」とか、何かもっと別に重要な問題がたくさんありそうに思えるかもしれませんが、お好みであれば(ちょっと時間はかかりますけど)、この「言語的なもの」についての話からそういった大きなテーマにつなげることはできます。細かいところはこの後、いつまで続くかわからないこのシリーズでお話させていただこうと思いますので、よろしければお付き合いください。今回のエントリはこのぐらいにしておきます。

ダンスと哲学[02]

「言語」と「言語的なもの」の違い
前回は「言語的なもの」を中核にした哲学とダンスの親近性についてお話をしました。ダンスも哲学も、言語の手前にある「言語的なもの」に関わる点で同じ問題を共有しうるということでした。今回は、その枠組みを継続させて、「言語」と「言語的なもの」との違いについて、お話させていただきたいと思います。

言語が言語として機能し、人に何かを伝えるためには、何らかの仕方で一般性に訴える必要があります。「椅子」という言葉は、ある程度どの文脈でも同じ指示内容をもつと期待されていて、人によって中身が異なるとコミュニケーションが成立しません。例えば「椅子」という言葉で、空間に漂う並々ならぬ雰囲気を指し示したとしても、普通の文脈ではその言葉は文字通り宙に浮かぶだけで、誰にも意味内容を届けることはできないままに止まります。「椅子」という言葉は、「人が座るもの」などといった一般的な意味をもつものですから、その意味の伝達が見込めない場合には、空っぽな言葉として宙に投げ出されてしまうのです。

ある言葉の意味は、通常、言語体系の規則によって決まっていますから、誰かひとりの人間がその言語の構造から離れて勝手な意味で用いても、伝えられないわけですね。言葉と意味との関係については、構造主義的言語学のちょっと細かい話もありますが、とりあえず今の文脈であれば、この程度で大丈夫でしょう。ふつう人は、例えば前のエントリーに書いたような赤ん坊の場合でもやがて、一般的な規則としての言語を習得し、他者に対して一般性の次元でコミュニケーションできる「身体性」を身に付けていくわけです。

しかし、このように一般的な仕方で自らを位置づけ、「言語」を用いてコミュニケーションできるようになると、それぞれの人の主観的な感覚に根ざした「言語的なもの」は背景に退くことになります。それは他者との一般的なコミュニケーションにおいて単に「役に立たない」だけでなく、先ほどの「椅子」という語の私的利用の例のように、一般性の次元の成立を脅かすものとさえなるわけです。

精神分析の議論だと、ここで「言語的なもの」といっているものは、エディプス・コンプレックスを経て「言語」の世界へ参入するときに、「無意識」の次元へと抑圧され、通常の意識には上らないものと位置づけられます。つまり、他者に開かれた一般的な世界に自分を位置づけるためには、「現実原則」に即して行動を整えていかなければならないわけですが、それは「快楽原則」にしたがった無意識の活動を見ないことで成立しているとされるわけですね。ここでは精神分析の議論の上にどっかり座って話はできないので、この程度にしますが、個々人の感覚に基づき、それぞれの身体を通じて他者に語りかけようとする「言語的なもの」は、規則的な一般性の次元にはないために、「言語」の世界では切り落とされる契機をもっているということはいえると思います。

さてそれでは、「言語的なもの」は、切り落とされるだけのものなのでしょうか。コミュニケーションの効率性を最大化しようとする社会においては、ある意味で、それは極限まで切り詰められる傾向があると思います。コミュニケーションは冗長であってはならず、できるだけ速やかな「交換」を行うことが社会的生産性を高めると信じられる構造においては、「商品」としてきれいにパッケージングされたものでない限りは、前述の「言語的なもの」はあたかもはじめから存在しなかったものであるかのように扱われます。

しかし、「言語的なもの」は、一般的な構造から排除されながらなお、人間にとって重要なものでありつづけるといわなければなりません。前述の「椅子」の例に限ってみても、「空間の並々ならぬ雰囲気」という僕の月並みな表現には還元されないものがそこにあり、言葉を尽くしてみても、既存の一般的な語でそれを十全に名指すことができないような場面において、「椅子」というつぶやきを、語の意味の一般的な規則から引き離されたものとして用いることを可能にするような「言語的なもの」の作用がありえるように思われます。

それはもちろん、一般的な社会人としては「失格」のコミュニケーションでしょう。何しろそれはよくわからないつぶやきなのですから。しかし、彼の表情、身体の動き、一般的な規則から逃れでるような、ただならぬ空間の布置全体が、その「椅子」という言葉に、その場全体で起きている事柄を象徴する役割を瞬間的に与えることは、ありえます。そこで「椅子」は、「人が座るもの」という一般的な意味を侵食され、何にも回付していなかない「止まる一点」を象徴することになるのです。言葉の一般的な意味の方が、反対にそこに支えられるような何かが、「言語的なもの」によって立ち現れるわけですね。

最後の議論は急ぎすぎたかもしれません。僕の言葉が事柄に追いついておらず、意味が不全な状態に止まっているように思えます。言語によって「言語的なもの」を語ろうとすることは、だからこそ、いろんな意味で限界があるのですが、次回はもう少しそのあたりのところを頑張ってみたいと思います。

北村明子「To Belong – Suwung」
10月5日、公演3日目の「To Belong - Suwung」を見てきた。2012年3月から展開されている連作。インドネシアの文脈を出発点として「目に見えないもの」を表現するという共通のテーマ を、推敲を重ねるように複層的に表現している。昨年の茅野での舞台との比較においても、いくつもの「跳躍」が果たされていることに、まず驚かされた。

まず、すだれ状に吊り下げられたロープをスクリーンに見立てて配置させたことは、舞台設備上のことではあるが、やはり連作による作品の進化といってよいだろ う。それまでの公演でも、スクリーンをダンサーを取り囲むように立体的に配置したり、白い布をダンサーに持たせて波立つように舞台に映像を投射したり、 様々な工夫がなされていたが、さざ波のように常に揺れ動くものに、つかの間の蜃気楼のように映像が立ち上る効果をもたせた今回の仕掛けは、作品の本質の中 からある種の必然として引き出されてきた感があり、純粋な進化といってよいもののように思われた。

また、作品上、いくつかのキーとして機能する振付も、すでに複雑な構造をもっていたものを「主旋律」として保ちながら、様々な対旋律や変奏を加えられ、より 重層化して深みのある表現に練り上げられていた。そうした動きの重層化は、時間軸をたわませ、ソコココに襞を作って、平板化した日常の空間を抜け出る穴を 穿つ。川合ロンをはじめとするダンサーの身体のキレのある動きは、それだけである種の時間的/空間的な歪みを生み出すが、それらが多様に折り重なって展開 されることで、純粋に強度的なものが立ち現れることになる。

それらはもちろん、観る者が自らの認識の枠組みで押さえつければ直ちに沈黙させられるものではある。「わからないもの」を無価値と見なし、おもねって取り入 ろうとするものを上段から価値づける「消費者」の立場に酔う者は、おそらく、「謎」を「謎」として呈示されることに居心地の悪さを感じ、折角開いた「異次 元」への道筋を出来あいの観念で埋めようとするかもしれない。北村明子の振付は、それでも、閉じられた「壁」の向こう側から、観客の身体を惹きつけ、揺ら し続ける効果をもっている。すべてのものを「現代日本」の文脈に収めなければ気のすまない視線は、そこで、罠にかけられた小鳥のように、異なる世界へと接 続させられていくのである。

そうした「超越」を立ち上らせるための入口として、北村は、インドネシアの文化的なものをテクストとして用いている。それは、「To Belong」のシリーズを通じて、一貫したテーマになっているものである。そうした方法は、しかし、いくつかのポジティブな効果とともに、限界をも背 負っているようにも思われた。例えば、リアントが伝統的な身体に調和的な振りを踊り、日本人のダンサーがそれを不器用に模倣するというシーンがあったが、 そこには、観客の側が「現代日本人」としての身体性を持つことを想定し、日本人ダンサーを観客と同調させた上で「滑稽さ」を基礎とする対話の通路を確保す るという意図があったように思われる。それは、一種の「観光」であり、現地の人びととの「触れ合い」を演出することで、ダンスや超越的な物事に縁遠い「現代日本人」を無理なく超越的なものへと接続するための前段の作業として、積極的な意味を持ちうるものといえる。

しかし、他方でそうした演出は、どれだけ振付的な洗練を加えても(実際、茅野の公演に比べて同じシーンは、より詩的な効果を生むように工夫がされている)、 構造的に「参照されるべきはインドネシアの文化である」という構図を作り出してしまうように思われる。「インドネシア>日本」という非対称は、「超越」的 なものへの通路として機能しながら、その「光を観る」観客の身体を「現代日本」という文脈に据え置く効果をもってしまうように思われるのである。

「解釈」とは、ガダマーによれば、テクストの地平をそれを解釈する者の地平と融合させるということであるが、その二つの地平は、「解釈すること」において必ず しも独立して現れるものではない。インドネシアの「光」との対話もまた、対話が果たされる時点ですでに融合が果たされているものとしてもありうるだろう。 仮にリアントの身体が伝統的なものとの調和としてそのまま呈示されたとしても、それを観る観客はすでに何がしかの「解釈」を加え、たとえ「無理解」という かたちではあっても、何らかのものをそこからとり出しているはずである。そうした多様な観客の解釈を、日本人のダンサーを用いていったん「現代日本」とい う文脈へと斉一化することは、観客を方向づける手段となるとはいえ、冗長的なものにならざるをえないだろう。「対話」において必要なのは、観客の地平を上 回る新たな解釈の呈示であり、「現代日本」の文脈から踏み出そうとする一歩なのではないだろうか。そうした歩みの中にこそ、特定の文化的な背景に依存しな い「超越」への道が開かれるように思われる。今後さらに発展していくと思われる北村明子の「To Belong」に期待したい。

 

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