To Belong Essays ■ 早田恭子

桃栗3年柿8年、気づけばシラット15年
~気づけば人生はシラットどっぷり、そんな日本人ムスリムの思うところなど~

 

早田恭子・プロフィール
早田恭子1998年より日本プンチャック・シラット協会所属。会長という名のなんでも係。CimandeのRifai Sahib氏に師事。2002年から2007年まで競技プンチャック・シラット国際大会演武部門に選手参加。現役引退以降は国際審判として活動。現在、PERSILAT(世界プンチャック・シラット連盟)認定国際審判2級。東外大インドネシア語専攻卒。

インドネシアとの出会い

この衝撃がこの先の人生を決めてしまった
初めてインドネシアの地を踏んだのは、1992年のことだ。母校の創立110周年を記念して先輩たちが設立した「士気高揚基金」なるものの使い道として企画実行されていた「学生インドネシア派遣団」に参加したことによる渡航である。このプロジェクトの3期生として、ジャカルタとジョグジャカルタの2都市に約2週間滞在した。

きっかけは、2期生として息子が派遣団に参加した友人からプロジェクトの良さを聞いた母に、派遣団への応募を勧められたからだ。自分からインドネシアに興味を持ったわけではなく、積極的な応募動機があったとは言えないが、なぜか選抜を通過した。一応、定員より応募者数は多かったように記憶している。それでも倍率は1.何倍といった程度で、狭き門というものではなかったはずだ。とはいえ、選抜というプロセスを経て派遣される以上、ただの海外旅行というわけにはいかない。学校の名前を背負っていくわけだから、事前の研修や下調べは結構綿密にやった、というよりもやらされた。

こうして渡航したインドネシアで一番衝撃を受けたのは、それだけ準備をしたのにも関わらず、いかに自分がインドネシアのことを知らないか、そしてインドネシアの高校生がいかに日本のことを知っているか、である。そう思う具体的な何かがあったのかどうかは、もう覚えていない。しかし、事前に度重なる勉強会や合宿を行って渡航した県内有数の進学校の高校生よりも、現地の高校生の方がよほど優秀だったのだ。

自文化への造詣と誇り。他文化への知識と好奇心。ホストファミリーとしての対応。どれを取っても彼らは自分たちより数段、大人だった。今思えば、当時のインドネシアでは義務教育は小学校までである。つまり、高校はそれこそ“高等教育”であり、ほぼ全入の日本の高校生と精神の成熟度が違うのは当然だ。

しかし、そんなことは当時知る由もなく、また、知っていたからといって「同年代との差」から受ける衝撃が和らぐものでもなかっただろう。結局、この衝撃がこの先の人生を決めてしまった。知らないのであれば知ればいい、とばかりに、帰国後は東京外国語大学インドネシア語専攻に進学。初渡航から20年が過ぎ、未だにインドネシアと関わって生きている。

人生が決定されるような衝撃をTo Belongプロジェクトで受ける人もいるはずだ。その衝撃、あるいはその記憶の一部になれるように、このエッセイを書いていこうと思う。

インドネシアのファースト・インプレッション

20年前の自分は「二度とインドネシアに行くことはない」
と断言
20年前に初めてインドネシアを訪れたのは、母校が企画した"派遣団"の一員としてであった。観光旅行ではなかったがゆえに、帰国後には報告書が作成されている。これには引率の先生方、そして団員一人一人が派遣団に参加した感想を寄せ、また、併せて派遣団の日程表や参加行事の様子が掲載された。

私の感想文はかなりの難産の末に生まれた800字であった。インドネシア(正確にはジャカルタとジョグジャカルタ)の衝撃が大きすぎたのだろう、何を書けばいいのか全くわからなかったのだ。「書けない」と親に当り散らしたような記憶がうっすらと残っている。とはいえ、感想文の提出は必須事項であったので(ある意味、夏休みの宿題)なんとか完成させた。そんな経緯は覚えていても、無理やりにひねり出した内容までは覚えていなかった。それが先日、この報告書を読み返す機会があり、あまりの内容のひどさに目を覆った。

しかし、その拙い文章からは帰国したばかりの生々しさが立ち上り、すっかり忘れていたインドネシアに対する自分のファースト・インプレッションを思い出すことができた。当時、インドネシア語を学ぶことを進学先に選択していたとはいえ、別段インドネシアを“好きになって“帰国したわけではなかったのだ。

感想文の中で20年前の自分は「二度とインドネシアに行くことはない」と断言している。つまり、もう一度訪れたい、という気持ちで帰国したのではないのだ。思い返してみるに、初めてのインドネシアは私にとって「暑い汚いうるさい」場所だった。今となってはどの要素にも慣れてしまったが、わりと潔癖症な母の影響を受けていた当時の自分にとって、インドネシアは一回訪れれば十分な場所、に分類されたのだ。

「二度と行かない」どころか…。
帰国してすぐの頃、「インドネシアでやっていた当たり前がここ(日本)にはない」と突然気づいたことがある。何かといえば、食事時に"ハエ(虫)を追い払う"ことを"しない"のが日本での食事だ、ということを自覚したのだ。そもそもエアコンの効いた室内で食事をしているのだから、追い払うどころか室内にハエが居ない。そして、インドネシア滞在中にホストファミリーが近所の人と道で立ち話をしているとき、足にハエが止まってもそれに気づいていないのか追い払うこともなく、誰しもが平然としていたことも思い出した。

もちろん、ハエが居るから二度とインドネシアに行きたくない、というのではない。自分の中に初めて比較対象ができた、という話である。過去に経験した、いわゆる欧米諸国の生活スタイルは子供の目からみれば日本とは大きな違いがなく、自分の日常との比較対象となりえていなかった。そこへ、"インドネシア"という一見まるで違う日常生活を送る場所が存在する現実が突きつけられた。そして「インドネシアならこうなのに、だから日本がいい」と結論づけたのが20年前。短期滞在だったおかげで、「日本ならこうなのに、だからインドネシアはイヤだ」とならなかったのが幸いしたように思う。「二度と行かない」どころか、違いに慣れた今では、年に一度は行く場所になってしまった。

でも「インドネシアが好きか」と問われれば即答は難しい。「嫌いじゃない」が正直なところである。

インドネシア歴20年、在日コミュニティからの観察記

多種多様な語源をもつインドネシアの言葉から、
新たな事象を受け入れてきた彼らの気質と歴史を思う
インドネシアへの初渡航が20年前、つまりインドネシア歴20年というのは、正直なところまだまだヒヨっ子の部類だと思う。さらに私の場合、インドネシアへは“渡航”ばかりで“滞在”経験はない。ここで言う“滞在“とは、旅行等で長期滞在するのではなく、生活の基盤をインドネシアに置くという意味での“滞在”である。つまり、学生として留学生活をしたこともなければ、仕事をする社会人として日常生活を送ったこともないのだ。

したがって、私がイメージする、あるいは理解するインドネシアはあくまでも東京を中心とした在日インドネシアコミュニティから見聞・体感するものである。またこれに加え、年に一度は訪れるジャカルタでの経験も、私の中のインドネシアに投影されている。

ヒヨっ子を自認するものの、20年という年数は赤ん坊が成人するには十分な年月だ。そして、10年ひと昔と言うくらいだから、20年前はふた昔も前の話になる。そのためインドネシア歴が浅い私でも、当のインドネシア人が知らないインドネシアをいくつか知っている。もちろん、これは10代以下もしくは20年前にはまだ物心のついていなかった若いインドネシア人が知らないことについて、というだけの話ではある。

例えば紙幣。彼らは赤い100ルピア札をあまり使ったことがないだろう。100ルピアという単位は1999年から紙幣ではなくコインが担っている。しばらくの間は紙幣とコインが平行して流通していたが、すべて中央銀行に回収されたようだ。今では両替所で受け取ることも、街中でお釣りとして渡されることもない。日本で言えば、戦後の昭和世代は500円札を知っているが、平成生まれはそれを見たことがないのと同じである。

そして、携帯が爆発的に普及した今となっては、ネットカフェ(warnet)は利用しても、電話屋(wartel)は使ったことがない若者も多いはずだ。これも日本で言えば、街中の公衆電話を使ったことがないのと同じようなものだと言えるだろう。

また、これは若者が知らないインドネシアではなく、若者が作り出した新たなインドネシアと表現されるべき現象だと思うのだが、以前に比べて会話に英単語が多く混じり始めているように感じる。これをもってインドネシアで英語が通じるようになってきた、とは決して言えないが、英単語混じりに話すことがcoolなのだと推測される。当然、使われているうちに言葉が社会に定着していくのはどこでも同じであり、カタカナ語が氾濫し始めた日本と同じことなのだろう。

しかし、外来語混じりがcoolだ、というのは、実のところ今も昔も変わらない彼らの気質なのかもしれない。現在のトレンドが英語であるために英単語が多く混じっているが、インドネシア語を紐解くと、サンスクリット語由来、アラビア語由来、ポルトガル語由来、オランダ語由来と語源が多種多様である。現地の言葉で適切に表現できない新たな事象とともに輸入・導入された言葉もあるだろう。

とはいえ、現在の英単語の使われ方から察するに、恐らくは「外来語の方がイケてる」という理由で使われていくうちに定着した単語が、相当数あるのではないかと思われてならない。はたして20年後のインドネシアでは何が残り何が消えているのか、今から楽しみだ。(…インドネシアという国家体制が消えていないとは言い切れないかも?アッラーフアーラム)

インドネシアのイスラーム[01]

同じ時代に生きていても、その行動規範は
ムスリムによってさまざまだ
タイトルにもあるように、筆者はムスリムである。ムスリムとはイスラーム信徒を指す名称であり、女性に対しては語尾が「ア」になるためにムスリマと呼称することも多い。“看護師”といえば男女両方を指すが、“看護婦”といえば女性のみを指す、とでも説明すればいいだろうか。

日本ではなかなか馴染みのない、触れる機会の少ないイスラームではあるが、実のところ世界人口の5人に一人はムスリムであり、その総数16億という信徒数はイスラームを世界第2位の宗教に押し上げている。ちなみに第1位はキリスト教だ。一般的に日本で流布しているイメージ、あるいは学校で習う知識としてのイスラームとはどんなものだろう。

自分が入信する前の状態を思い返してみると、「中東のもの」「豚を食べない」「男女不平等」といったキーワードが思い浮かぶ。しかし、私が学校教育を受けたのはもう大分昔の話だし、国際情勢も国内状況も当時からは大きく変化した。今はこの3つに「テロリスト」のキーワードが加わるのかもしれない。それとも、このようなキーワードを提示することこそ、自分からステレオタイプに入り込んでいるのだろうか。

なんにせよ、To Belong Essaysはインドネシアを軸として執筆されているので、ここでイスラーム談義をするつもりは毛頭ない。しかしながら、インドネシアは2億人以上の人口の9割近くが自身をムスリムに分類する、世界最大のムスリム人口を抱える国である。インドネシアに関わる物事や人を前にしてイスラームを無視するわけにはいかないのだ。

もちろん、インドネシアの全てがイスラームにルーツをもつわけではない。イスラームが到達する以前に精神文化の土壌となったヒンドゥー教や仏教をルーツとするもの、さらにはそれ以前の土着文化と思われるものも多い。そしてそれらとイスラームがごった煮になっている部分も数多く見受けられる。また、イスラームの実践や理解、社会における役割は時代によって違う。同じ時代に生きていても、その行動規範はムスリムによってさまざまだ。とはいえ、好むと好まざるとに関わらず、現在のインドネシアにおいてイスラームを完全に遮断して生きていくことは不可能だと思う。

インドネシアのイスラーム[02]

つい先ほどまで自分と談笑していた彼女が
白い礼拝着に身を包み、礼拝動作を繰り返すのを、
神妙な気持ちで眺めていた。
日常におけるイスラームの存在を考えると、まず、聴覚から遮断することが難しいだろう。世界最大のムスリム人口を抱える国である。「千の塔の都」と称されるエジプトのカイロとは比べものにならないが、それでもマスジド(寺院)やムショラ(礼拝所)は数多くある。それらは全て、1日に5回は礼拝の案内“アザーン”を大音量で流すのだ。もっとも、近くにマスジド等がなければ問題はない。しかしたとえマスジド等がない地域に居たとしても、視界から遮断することが難しい。テレビをつければ説教師や宗教指導者が登場する。教育テレビ的内容ではなくとも、宗教指導者が画面越しに視界に入ることには変わりがない(今村君のジョクジャカルタ通信[01]参照)。

ドラマでは宗教指導者や敬虔な人、あるいはその逆な人物が一種のテンプレートのような役割を担う。太陰暦で動くイスラーム暦の日付が変わる日没時には、礼拝を呼びかけるスポットが流れる。テレビを消したところで、10人に9人がムスリムの国である。クラスメイトや同僚にムスリムが“いない”という状況は、相当珍しい。ヒンドゥー教がメインとなり、宗教の比率が逆転するバリ島(10人に9人がヒンドゥー教徒)においてすら、一定数のムスリムが存在し、街中で見かけることができるのだ。

20年前のホストファミリーは、ジャカルタの家族もジョグジャカルタの家族もムスリムの一家だった。生まれて初めての"ムスリム"という存在を前に、好奇心いっぱいになったのを覚えている。ジャカルタでは、同い年のホストが礼拝する様子を見学させてもらった。つい先ほどまで自分と談笑していた彼女が白い礼拝着に身を包み、静謐な空気の中、社会の副読本にあったとおりの礼拝動作を繰り返すのを、神妙な気持ちで眺めていた。思えば、これが滞在中にあった唯一のイスラーム的イベントである。

早田版インドネシア虫対策

あわせ技で6時間睡眠を獲得!
あわせ技で6時間睡眠を獲得!あわせ技で6時間睡眠を獲得!私は、面の皮に反比例して手足の皮が柔らかいらしく、インドネシアに来るとものすごい蚊に刺される。長期滞在するうちに食事や生活習慣で(蚊にとっての)体臭が変わり、刺されなくなってくるという話も聞くが、そこまでの長期滞在をしたことがない。睡眠が蚊に中断され、暑さも加わり、あまり深く眠れないことも多い。しかしここ数年はわりと快適だ。その秘密はこれ。

以前から蚊除けスプレーの類は数種類出ていた。しかし、海外製品は人の方が死にそうな勢いで煙と臭いが出るし、日本企業製品は肝心の蚊に効かない。それがガイアの夜明けに取り上げられるくらいのドラマティックさで研究した成果が詰め込まれたこの製品はいい!人の方が駆逐されそうな臭いもしないし、60日も使えるのにこのコンパクトさ。しかも当然のことながら、確実に効く(ちなみに薬剤がインドネシア仕様なので、日本のコバエにも効果覿面) 他社製品に比べるとちょっと高いかもしれないが、インドネシアに到着して両替を済ませると、まず買うのはこのスプレーなのだ。

あわせ技で6時間睡眠を獲得!あわせ技で6時間睡眠を獲得!そして快適な睡眠へのあわせ技はこれ。こちらは塗るタイプの蚊除けだ。あまり頻繁に塗ると皮膚ガンが、という噂も聞くが、目先の睡眠時間の誘惑には勝てない。これを塗らずには寝られない。フマキラーのスプレーが出る前は、このクリームだけで寝ていたけれど、暑さで溶けてしまうのか、3時間ほどで効果が切れてたような気がする。それがスプレーとのコンボで、今はわりと快適に6時間睡眠を獲得している。

「近代競技」としてのプンチャック・シラット

現在進行形で「競技」として日々磨かれ発展している様を
目撃できる
「近代競技」としてのプンチャック・シラット「近代競技」としてのプンチャック・シラットオリンピックの理念に基づき、東南アジア11ヵ国が参加し相互理解を深め平和に貢献する、東南アジア総合技大会(通称「SEAゲームズ」)というものがある。これは東南アジア地域のオリンピックのようなもので、2年に1回、東南アジアのどこかで開催される。2013年はこの大会の開催年に当たり、ミャンマーのネピドーがメイン開催地(会場)である。ちなみに第27回のSEAゲームズであり、ミャンマーが開催地になるのは実に44年ぶりだ。政治的な情勢が開催地としての採用に影響したのだろう。そして、私は今、この第27回SEAゲームズにプンチャック・シラットの審判として参加中である。(2013年12月10日現在)

SEAゲームズではサッカーや柔道など世界的にお馴染みのメジャー競技に加え、セパタクローやボビナムなど、一般的にマイナーと分類される競技も正式種目として競われる。そして、プンチャック・シラットは80年代に正式種目として採用された。ここで競われるプンチャック・シラットはいわゆる伝統武術としてのそれではなく「近代競技」としての'スポーツ'プンチャック・シラットである。

これには一対一でスコアを競う試合部門と規定型(あるいは自由型)を競う演武部門とがある。詳しいことはいつかに譲るとして、写真は試合部門の一場面だ。選手はボディープロテクターを着用し、許されたターゲットエリアに対し、手技足技で攻撃を行う。また、相手の体勢を崩すべく連続技も繰り出す。それぞれの攻撃によって得られる得点は異なり、最終的にスコアの高い方が勝者となる。

強豪国はやはり発祥の地インドネシア。そして意外なところでベトナムが強い。マレーシアも強豪といえるだろう。それぞれのファイティングスタイルや得意とする動きは違うが、どれもがプンチャック・シラットだ。伝統武術として連綿と続いてきたものが、現在進行形で「競技」として日々磨かれ発展している様を目撃できるのは、とても楽しい。シラットの真髄は伝統武術にあると確信しているが、その一方でこの「競技」にもまた独特の魅力があるのは確かである。

スンダ舞踊体験教室開催
インドネシアは大小1万を越す島々から成る世界最大の島嶼国家です。当然、島が違えば文化も異なり、さらにまた、同じ島の中でも多数の言葉や伝統が存在する多文化国家でもあります。そして、数あるインドネシアの地域文化・部族文化の中で、一番有名なものはバリのそれでしょう。バリ文化を代表するバリ舞踊やバリガムランを学べる場、鑑賞できる機会は、今の日本にはそれなりに多く存在します。次に触れる機会があるのはおそらく、ジャワ文化ではないでしょうか。日本でジャワ舞踊を学ぶことも、ステージを見ることも可能です。この他には、ミナンカバウのTari Piring(お皿を持っての踊り)を目にできる機会がありそうです。また、アチェのTari Saman(座位でのラインダンスのようなもの)もインドネシア関係のイベントで披露されることの多い舞踊です。なかなか一同に会して見比べる機会はありませんが、どの舞踊もそれぞれに特徴をもち、多文化の面白さを実感できます。

そして、プンチャック・シラットもルーツをどこに持つか…で、動きに特徴があります。バリのプンチャック・シラットには、バリ舞踊に特徴的な目や体の動きを見ることができます。また、ジャワで見るプンチャック・シラットには、ジャワ舞踊同様の優雅さがあります。動きだけではなく使用する武器にも地域色があり、現在、プンチャック・シラットで使う武器として有名なカランビットは、元来はミナンカバウのものでした。他にも、西ジャワのスンダ文化に伝わるプンチャック・シラットの動きは、そのダイナミックさから演武の代名詞のようになっています。このダイナミックさは舞踊にも通じます。つまり、スンダのプンチャック・シラットの中に舞踊が感じられるように、スンダ舞踊の中にも武術であるプンチャック・シラットを感じることができるのです。

この度、スンダ舞踊の専門家とスンダのプンチャック・シラットの師範が一緒に来日し、体験教室を開催します。舞踊の中の武術をぜひ、ご体感ください。
 

  • [1]スンダ舞踊体験教室(12:30~ミニステージを予定)
    • 日時:2014年1月30日(木)13:30~15:30(13:00 受付開始) 
    • 会場:日本ASEANセンター アセアンホール
      •     東京都港区新橋6-17-19 新御成門ビル1F
      •     都営地下鉄三田線「御成門」駅・A4出口より徒歩1分
    • 参加費:無料。
      •     ※動きやすい服装でお越しください。
      •     ※要事前申込み
    • 申込方法:お名前・参加人数・ご連絡先を、E-mail(
      •         にてお送りください。
    • ▼02_04.pngチラシはコチラ

 

  • [2]スンダ舞踊体験教室
    • 日時:2014年2月2日(日)14:30~15:30
    • 会場:神奈川県立かながわ女性センター 会議室(TEL:0466-27-2111)
      •     藤沢市江の島1-11-1
      •     ●小田急線「片瀬江ノ島」駅下車・徒歩15分
      •     ●江ノ島電鉄「江ノ島」駅/湘南モノレール「湘南江の島」駅下車・徒歩20分
      •     ●藤沢駅前から江ノ電バス・江ノ島行き(15分)→「江ノ島」下車・徒歩5分
      •     ●大船駅前から京急バス/江ノ電バス・江ノ島行き(25分)
      •         →「江ノ島」下車・徒歩5分
    • 参加費:無料

多様なインドネシアのカレンダー
そろそろ3月も終わり、4月から新年度が始まる。日本に住んでいるとお正月で年が改まるのとはまた別に、4月から始まる新年度にも区切りを感じることができる。また、西暦の他に和暦があり、2014年の今年は平成26年でもある。これに加えて旧暦というものも存在し、しかも冠婚葬祭以外で意識することはないが、六曜による曜日まである。一つの国の中で複数のカレンダーが同時並行で動いているのはいささか特殊な状況のように思えるかもしれない。しかし、実はインドネシアでも同様だ。

毎年変わるラマダーン月
まず、西暦(グレゴリー暦)と合わせてヒジュラ暦がある。これは西暦622年を元年とし、ムスリム(イスラーム教徒)が使うカレンダーだ。完全な太陰暦で1か月は29日あるいは30日であり、新月の目視を持って月が替わるのが原則となっている。このカレンダーの第9番目の月がラマダーン(断食)月であり、この月の1日から30日(場合によっては29日)まで、ムスリムは日中の一切の飲み食いを絶つのが基本だ。完全な太陰暦であるがためにヒジュラ暦は年間約354日であり、そのため年間365日(閏年は366日)のグレゴリー暦とは11日ほどズレが生じる。このため、ラマダーン月はヒジュラ暦第9月ではあるが、常にグレゴリー暦の9月(September)と重なるということはなく、毎年変動する。ちなみに、2014年のラマダーン月は6月末の新月(おそらく28日頃)から次の新月までである。2015年は6月中旬の新月(おそらく18日頃)からラマダーン月となるはずだ。このようにグレゴリー暦とヒジュラ暦は常にずれていくため、最新のヒジュラ暦を把握していないとラマダーンも新年も迎えられない。

ニュピの日は外出禁止
次に有名なところではバリカレンダーが挙げられる。バリ島以外でこのカレンダーにお目にかかることはそうあるものではないが、日本からバリ島を訪れる際には非常に重要なカレンダーだ。このカレンダーに基づいて各種祭礼式典の日程が決められていくため、在住者ではない観光客にも大きな影響を与えることとなる。なかでもニュピと呼ばれるバリカンレンダーの新年は外出・殺生・労働などが禁じられる日であり、島全体が静寂に包まれる。この”静寂”を守ることが求められるのは、バリ島に滞在する全ての人々だ。そして、トランジットと緊急の場合を除く全ての飛行機が離発着を行えない。当然、船舶も同様に動かない。静寂を味わうにはいいが、仕事をやりくりして短期の休暇で訪れたいような人はバリカレンダーに考慮して渡航日程を決めないといけないだろう。

占いもあるジャワ島のカレンダー
さらに、ジャワ島にも独自のカレンダーがある。元来はイスラーム到来以前のヒンドゥーに基づくカレンダーのようで、5日週の曜日名にはバリカレンダーとの共通項も見られる。しかし、ジャワ島にイスラームが伝播していく中でその影響を受けたらしく、月の名前にはヒジュラ暦との相関性がある。ヒジュラ暦とジャワ暦で第2,5,6,7,10月の呼び名はほぼ共通(若干の転訛あり)だ。ヒジュラ暦第9月のラマダーン月は、ジャワ暦ではジャワ語で断食を指す「プアサ」月となっている。さらに預言者ムハンマドの生誕月と言われているヒジュラ暦第3月のラビーウ・アルーアウワル月は、ジャワ暦においては預言者ムハンマドの誕生を指す「マウリド」月となっている。このようにイスラームの影響を受けたカレンダーではあるが、イスラームを実践するために必要なカレンダーであるようには思われない。日々の生活に重要なのはその月名ではなく、曜日の方なのだ。ジャワ暦は5日で一回りする5日週と、7日で一回りする7日週の組合せで動いている。そして、この組合せでその人の性格や結婚相手との相性、あるいは各種行事を行う吉日を導き出すことができるのだ。日本では六曜となるため少々乱暴な例えではあるが、「大安の月曜日」生まれの女性と「仏滅の日曜日」生まれの男性の相性を占い、この二人に最適な結婚式の日取りを導き出す、という具合である。

インドネシア地方都市の様子

ジャカルタから段階的に消えていったベチャは、地方においてはまだまだ“ちょっとそこまで”に活躍する庶民の足である
インドネシア地方都市の様子インドネシア地方都市の様子GWの2週間、インドネシアに滞在する機会を得た。訪問・滞在先は東ジャワの古都マラン(Malang)、西ジャワの山村ガルッ(Garut)、首都ジャカルタ、スンダの故地ボゴール(Bogor)、工業団地の街ブカシ(Bekasi)である。平均して年一回程度はインドネシアを訪れているとはいえ、基本的に逗留先はジャカルタである。そのため、今回の滞在で訪れた地方都市の様子には興味を惹かれるものが多かった。この滞在でいくつか印象に残ったことなどを書いてみようと思う。

今回は東ジャワと西ジャワの間を移動するのに、飛行機を利用した。可処分所得が増加した庶民は快適さと移動時間の短縮を求めるようになり、結果、国内線市場が大きく発展しているらしい。それを裏付けるかのようにスラバヤ空港は大変活気のある場所だった。飛行機の利用者とその送迎者で賑わい、多くの小奇麗なテナントが並んでいた。利用航空会社の離発着が新ターミナル側だったせいもあるだろうが建物も新しく、お手洗い等の設備も清潔で、正直なところ経年劣化が目立つ首都ジャカルタの空港よりもよっぽど使い勝手がよい。ただ、チェックインカウンターエリアに利用者以外が入れないのはジャカルタもスラバヤも同様だ。一人の出発に3,4人は見送りに来ることが多いお国柄、これは致し方ない。

ガルッからジャカルタへの移動は、友人の車による高速道路を使っての移動となった。道中、高速道路の休憩エリアの大きさに驚かされる。利用者が多ければ当然ながらそれに見合う大きな駐車場と、その利用者を収容できるだけの設備が必要となる。日本のPA・SAを見慣れた身にとって、インドネシアの休憩エリアはまるでショッピングモールのようだ。休憩エリアを利用したのは夜であったが、駐車場もテナントも明るく照らされ、ミャンマーで経験した真っ暗闇の高速道路との違いに経済の差を見た。長らく中央集権が続いたインドネシアでは、中央政府のあるジャワ島のインフラが最も整っているという。スマトラやスラウェシ、カリマンタンなどジャワ島以外では整備が遅れジャワ島との差があるとも聞く。それでもジャワを見る限りでは、ネクスト11の筆頭、G20のメンバーとして着実に資本主義世界のプレイヤーの地位を固めているように感じられる。現状の経済発展がインドネシアにとって最善の道か確信はできないが、それを言うのは先進国と言われる国に住む者のエゴだ。

競技プンチャック・シラット体験教室
インドネシアの伝統武術プンチャック・シラットには、伝統武道としての側面とは別に、スポーツ競技として一面があります。日本では触れる機会の少ない「競技プンチャック・シラット」ですが、今回、ルール説明から種目別のデモンストレーションを加えた体験教室を開催いたします。

また、競技プンチャック・シラットだけではなく、日本プンチャック・シラット協会に所属する伝統流派もそれぞれの流派の紹介・デモンストレーショ ンを行います。1日で競技プンチャック・シラットを学び、伝統流派をまとめて見学することのできる欲張りなプログラムになっております。皆様、ぜひお誘いあわせのうえ、ふるってご参加ください。

競技プンチャック・シラットについて
一対一でスコアを競う試合部門と規定型(あるいは自由型)を競う演武部門とがある。試合部門はボディープロテクターを着用し、許されたターゲット エリアに対し、手技足技で攻撃を行う。また、相手の体勢を崩すべく連続技も繰り出す。それぞれの攻撃によって得られる得点は異なり、最終的にスコ アの高い方が勝者となる。演武部門は規定型の優劣を競う1人型と3人型、および自由型の出来を競う2人型がある。

 

日時
2014年6月8日(日)15:00~17:30
プログラム
14:30 受付開始
15:00 開始挨拶
15:20 伝統流派ムルパティ・プティ紹介
15:35 伝統流派プリサイ・ディリ紹介
15:50 伝統流派パンリプール紹介
16:05 競技プンチャック・シラット紹介
(10分休憩)
16:30 競技プンチャック・シラット体験
          (1人型あるいは試合もしくは2人型)
17:30 終了予定
会場
バライ・インドネシア(東京インドネシア学校)
住所
東京都目黒区目黒4-6-6 バライ・インドネシア M2F体育館
(JR「目黒」駅より徒歩15分/最寄バス停「元競馬場」より徒歩5分)
参加費
無料。
※動きやすい服装でお越しください。
※要事前申し込み
主催
日本プンチャック・シラット協会
申込方法
お名前、参加人数、ご連絡先を、E-mailにて下記までご連絡ください。
ご連絡先▼02_04.png
その他
日本プンチャック・シラット協会や各伝統流派に関する概要は、下記より日本プンチャック・シラット協会のWebサイトをご覧ください。

身近になりつつあるイスラム文化
以前は遠い砂漠の国の宗教であったイスラームが、最近はムスリム(イスラーム教徒)観光客の増加や大砂嵐関の活躍などもあり、少しずつ隣人の宗教になりつつあるように思う。その証拠に、テロなどの国際ニュースだけではなく、日本国内におけるムスリムへのおもてなしなどが社会欄に取り上げられることも増えてきた。

おかげで、イスラームに関する知識が昔よりも一般的になり、明らかに誤った認識や誤解に基づく記述が減ってきている。その誤表現の最たるが「アラー(アッラー)の神」というものだろう。アラビア語で「アッラー」とはすなわち「神」を指す。ムスリムは「神=アッラー」に帰依し全てを委ねる人々であり、「アッラー」という“名前”の「神」に信心しているわけではないのだ。つまり、「アッラーの神」と書くことは「Mountain Fuji-yama」や「Meiji-dori Street」というようなものであり、ムスリムにとっては非常に違和感のある表現である。しかし、前述のように近年この表現はあまり見なくなった。

また、ムスリムの信仰行為に関する誤解も減ってきたように感じる。今まで一番誤解されていたのが「断食」ではないだろうか。啓示の言葉であるアラビア語や歴史あるムスリムマジョリティーの地域の言語をカタカナでそのまま使うのではなく、既に日本語になっている仏教用語をイスラーム用語として転用している以上、その単語が元来もつ仏教的イメージに引きずられるのは致し方ない。「断食」と言われればどうしても「即身仏」や「苦行」がセットで思い浮かぶ。そのためか、イスラームにおける断食、つまりはラマダーン月30日(あるいは29日)間の断食を“一か月ずっと飲まず食わず”と勘違いされることも多かった。まるで死人が出てしまいそうな荒行だが、実際は”日の出から日没まで“飲まず食わずになるだけだ。昨年、日中に断食を行いながら本場所を勝ち越した大砂嵐関の活躍を伝えたニュースのおかげもあり、断食は「日の出から日没まで」であることがそれなりに知られてきたように思う。

イスラーム暦は以前書いたように月の運行に基づく一年が354日の太陰暦であり、日本で日常的に使われている西暦(グレゴリー暦)とは11日ほどの差が生じる。つまり、昨年は7月10日であったラマダーン月1日が、今年は6月28日あるいは29日になると計算(予想)される。個人的には体感として、毎年ラマダーン月が早まってきている。これは年の変わり目、基点を1月1日に置いているからだろう。

それはさておき、ラマダーン月はちょっと遠くから見ていた隣人の宗教を“自分のご近所さん”にするよい機会でもある。なぜなら、大体どこのマスジド(イスラーム礼拝所)でも日没に合わせて断食明けの料理を提供しているからだ。場所によって毎日食事を提供しているところ、週末だけに限定しているところ、軽食を提供しているところ、など様々。しかし、どこに行っても、ムスリムが集まり断食を楽しんでいる様子を一緒に何かを食べながら見ることができる。知らないお隣さんを誤解するより、気軽に食事の輪に入り”知り合いのご近所さん“になってみてはいかがだろうか。

▼02_04.png日本各地のマスジドを一覧にしているサイトはコチラ

イスラームにおけるお葬式
先日、10年以上師事した師匠が亡くなった。人間に限らず、現世における命は全て有限である。途方もなく長い年月を生きる(存在する)鉱物にも、終わりはあるのだ。イスラームにおける“無限”は神(アッラー)にのみ見出される。そして、死とは無限の愛の主であるアッラーの御許に戻ること。残された者は悲しむのではなく、現世を去った魂がアッラーの御許で平安を得ることを祈るのだ。そうは言っても故人との思い出を振り返れば、やはり悲しみと喪失感を抑えることはできない。こんな気持ちに区切りをつけるべく、イスラームにおけるお葬式を書いてみようと思う。

まず、大前提としてイスラームは土葬だ。これは、聖典クルアーンに土葬の根拠が示されている上、預言者アダムの時代から続く土葬を継承することである。火葬(あるいは焼死)されたところで最後の審判の日の復活に支障があるわけではないが、“火に焼く”という行為から地獄の責め苦が連想されるため、ムスリムは心情的にも火葬に嫌悪感を示す。

次に原則として、亡くなってから24時間以内に埋葬することが求められる。ただし、日本では24時間以内の埋葬が法令で禁じられているため、このルールを守ることはできない。それでもできるだけ早い埋葬を行うべく、亡くなった翌日あるいは翌々日には埋葬されるのが常だ。しかし、インドネシアにこのような法令は存在しないため準備ができ次第、午前中に亡くなればその日の内に埋葬される。夜に亡くなると墓穴を掘る明かりがないため、大概は翌日だ。いずれにせよ埋葬までの時間は日本に比べて大変に短く、遠くの遺族は葬儀や埋葬に間に合わないことも多い。しかし遺体との対面・埋葬への立ち合いが故人の魂との触れあいではないので、死の瞬間に立ち会えないことほどには、感情に訴えるものはないようだ。

そして埋葬に先立ち、故人の遺体は同性のムスリムによって洗われ、白い布で包まれる。余談になるが、インドネシアで子供が怖がるお化けにpocongというものがある。これは遺体がこの白い布で包まれた状態のまま起き出し徘徊する、言うなればゾンビのような存在だ。興味を持たれた方はpocongで画像検索をしてみるといいだろう。(検索結果がトラウマになっても筆者は責任を持ちません)

白い布で包まれた遺体は棺桶状のものに入れられ、礼拝の方向(キブラ)に安置される。この時点で行われるのが「お葬式」にあたる「死者(故人)への礼拝」である。これは故人を讃えるのではなく、故人の罪の許し、最後の審判の日までの仮住まい(墓)での安寧、天国における故人の高位の位階をアッラーに乞うものだ。

この礼拝を終え、遺体を墓地へ運ぶ。礼拝を行った故人宅や礼拝所から墓地が近い場合は、徒歩で葬列を組むことになる。人の背丈ほどもある墓穴を掘り、棺桶から遺体を取り出し、穴の底に安置する。その上に板を被せ、土を埋め戻し、盛り土をする。墓穴を地面の高さと同一にしないのは、土葬である以上は徐々に遺体が土に還り、土中の空間が減少するからである。お墓が完成した後、再び祈りを捧げる。故人の魂の平安をアッラーに乞い願うのだ。

こうして完成したお墓には、折に触れ訪れることになる。もちろん、故人の魂がそこに居るわけではない。また、そこで祈ることが日本のように先祖の加護を願うことではない。それでも墓地を清掃し、故人を偲び、その魂の平安を祈ることで、改めて自身の命が有限であることを思うのだ。有限のものは全て無限のアッラーからの借り物であり、最後にはその所有者の元に戻される。

  インナー リッラーヒ ワ インナー イライヒ ラージウーン
  本当に私たちはアッラーのもの、本当に私たちはアッラーの御許へ帰って行きます。
  (「ムスリムの砦」サイード ブン アリー ブン ワハフ アル=カハターニー著 サイード佐藤・ファーティマ佐藤訳より)

インドネシアとマレーシアの違い
インドネシアとマレーシアは兄弟国のようなもので、衣食その他文化に共通点も多く、言語も似通っている…とはよく言われる話である。しかし、この言葉に異を唱えたい気持ちが昔からある。私の知っているインドネシアとマレーシアは言われるほど「似ていない」のだ。ただ、これは私の馴染んでいる“インドネシア”がジャワ島を基盤にしているから、そう感じるのだろうとも思う。スマトラ島を基盤にする人であれば、マレーシアにジャワより親和性を見出すのではないだろうか。

ともかく、通じると言われる言葉に関して見てみよう。確かに、インドネシア人とマレーシア人はお互いに会話ができる。私自身もマレーシア人との会話は基本的に成立するし、致命的なまでに内容の勘違いをしたことはない。とはいうものの、ところどころに理解不能な単語が入る。また、マレーシア人同士の会話は自分がマレーシア人とする会話ほどには理解できない。インドネシア語と比較し、マレーシア語の発話は繋がっているように思う。強引な例えだが、インドネシア語が江戸弁ならマレーシア語は京都弁というところだろうか。慣れないと聞き取りづらいのだ。

同じ言葉を違う意味合いで使うことも多いように感じる。例えば、duduk。インドネシア語では「座る」という意味。これはマレーシア語だと「居住している、(そこに)在る」という意味になるようだ。確かにインドネシア語でもpendudukという単語があり、こちらは「居住者」という意味だ。ここから連想すれば、また、話の流れを掴めていればマレーシア人にdudukと言われても発話者の意図するところが「座る」ではなく「居住する」であることは推定ができる。推定はできるが、ものすごい違和感だ。あるいは、sisir。インドネシアでは一般的に髪を梳く櫛のことだ。しかしどうやらマレーシアにおいて櫛を指す言葉はsikatらしい。この言葉、インドネシアで耳にする場合、歯を意味するgigiをつけて歯ブラシを指すことが多い。sisirもsikatも「ブラシ状のもの」であることに変わりはないので、言いたいことはわかる。わかるのだが、インドネシア語に慣れた耳にはしっくりこないため、脳内での文章理解に時間がかかってしまう。

文化としてのシラットにも、マレーシアとインドネシアで違いがある。マレーシア及びシンガポールでは(マレー系の)結婚式において、シラットの演武が披露される。これは新郎新婦を祝うための一種の形式のようだ。新郎新婦はその日の「王」である。王を祝う演武であるため、足を上げることはあっても、蹴りを出してはいけない。手も拳で殴るような動作はご法度で、また、攻撃と取られるような動作を新郎新婦に向けてはいけない。このようにいくつかの約束事が決められているのが、結婚式用の演武だ。ジャワのシラットでは耳にしない、kembang(花)という連続動作もあるらしい。(kembangが結婚式用に用いられているのか、結婚式用の演武がkembangになったのかは不勉強でわからない)インドネシアでもマレーシアに近いリアウの辺りではこのような祝いの演武があると聞くが、知る限りジャワ島で見ることはほとんどない。ジャワ島で行われるのは、余興や出し物としてのシラットである。

ぱっと見に惑わされ、インドネシアもマレーシアも「同じだ」「大きな違いはない」と思いこむと、意外と深い落とし穴に落ちそうだ。

インドネシア芸術の「秋」
年の瀬が日々刻々と近づいてきている。が、それでもまだ、これを書いている今は「秋」だ。食欲の秋、芸術の秋…日本のような四季のないインドネシアでは何を基準に季節を感じているのだろう。やはり果物だろうか。それはともかく、2014年の日本(東京)の秋は、私にとってインドネシア芸術の秋になりそうだ。

まず、11月16日(日)にジャカルタ芸術&文化コラボレーションパフォーマンス2014が開催された。これはジャカルタ首都特別州舞踏団がスマトラからパプワまでインドネシア全土の舞踊と音楽を凝縮して見せてくれた。外部からゲスト歌手を迎えつつ、多種多様な音楽と踊りを一つのステージにまとめた、非常に見応えのあるステージだった。パフォーマンスの中にはシラットの動きの取り入れられている部分もあり、シラットがインドネシア文化の一部であることを再認識した。

次に、11月21日(金)には翌22日から全国公開されるインドネシアのアクション映画「ザ・レイドGOKUDO(http://theraid-gokudo.jp/)」の公開に合わせ、前作と今作のディレクターズカット版を一気に鑑賞できるイベントが開催される。日本公開版はディレクターズカット版より4分以上短くなっているそうなので、アクションシーンを堪能したい場合は1日限定公開のディレクターズカット版を見るか、海外版DVDを手に入れるのがいいだろう。この映画にはシラットの達人が何名か出演している上、彼らが殺陣の振付も担当しているため、シラットの動きを多く見ることができる。

さらに、11月22~24日の三連休には「映画上映者の国際交流! 日本・インドネシア編(http://eiganabe.net/indonesia/)」が行われる。この企画の一環として、日本ではなかなか見ることのできないアート系インドネシア映画が上映される。

各語科の語劇と料理店が特色である母校の学園祭、外語祭(http://www.gaigosai.com/)もまた11月に開催される。こちらは11月20~24日が開催期間中にインドネシア料理を始めとした各国料理を楽しむことができる。また、インドネシア語劇は24日(月・祝)に上演される予定だ。

また、日本プンチャック・シラット協会に所属する伝統流派の一つである、ムルパティ・プティ派師範ユリ・プルワント氏が12月28日まで二子玉川(http://www.rankingshare.jp/rank/ikjdwwtkbf/detail/7)で個展を開いている。武術という”動“を修めたユリ先生が描く絵画は、「静」でありながら「動」を感じさせてくれる。

日本で観られるインドネシア映画
日本でインドネシア映画を観られる機会は、そう多くない。インドネシア語を学び始めて20年ほど、この間の記憶にある限り、1回だけの単発上映ではなく“劇場公開”された作品は10本もないように思う。「青空がぼくの家(95)」「枕の上の葉(99)」「ビューティフルデイズ(05)」「ザ・レイド(12)」「キラーズ(日イネ合作、14)」「ザ・レイドGOKUDO(14)」…インドネシア映画やポップカルチャーに対する私のアンテナが弱いために取りこぼした公開作品の存在を想定しても、日本で劇場公開されるインドネシア映画は、やはり少ない。ドキュメンタリー作品の「アクト・オブ・キリング(14)」や残留日本兵を主役にしたインドネシア人俳優”も”出演している邦画「ムルデカ17805(01)」をカウントに入れても、知る範囲ではまだ10本に満たない。劇場公開作品は少なく、また、正規・非正規品問わずDVDを日本で手に入れるのも難しい。少しでもたくさんインドネシア映画を観るには、東京国際映画祭やアジアフォーカス・福岡国際映画祭など映画祭に足を運ぶしかない。そして、今年はドキュメンタリー・ドリーム・ショー ― 山形in東京2014で上映された「デノクとガレン(http://www.denok-gareng.com/)」を観た。

原題は「Denok&Gareng」、ドキュメンタリー映画である本作品が撮影した中部ジャワの片田舎に住む若夫婦の名前がそのままタイトルになっている。(デノクが奥さん) 2013年山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された際のあらすじ紹介には、「豚を飼育して生活するデノクとガレン一家。父が借金を残して出奔した夫の実家で、母や弟たちと一緒に生活する。常に経済的な問題を抱えながらもどこか楽天的な雰囲気に満ちた一家の日々が伸びやかに描かれる。」とある。(http://www.yidff.jp/2013/nac/13nac02.html) 

この作品に映し出されるのは正直、私が見聞きしてきたインドネシアにはなかった貧しさを抱えた家族だ。それでも、あらすじ紹介にあるとおり、「どこか楽天的」に明るい。この家族は貧しいながらも家があり、仕事があり、バイクや携帯を所有し、電気を使っている。言うなれば、貧困層どん底のどん詰まりというわけではない。さらに誤解を恐れずに言えば、冬のない地域の貧しさは冬のある地域のそれと比べると、貧しい日常生活を映す画面が伝える悲壮感は薄い。とはいえフィクションではないので、笑う門には福来るとばかりに、彼らの明るさによってなにか物語的な救いが発生するわけではない。

デノクは望まない妊娠で恋人に捨てられ、その後に出会ったガレンと家庭を築く。生業としている養豚の餌はゴミ漁りで仕入れ、子供には学校の先生に親の職業を聞かれた場合に備えて、嘘を仕込む。イスラムで豚食は禁忌であるため、「お父さんは養豚をしています」とは言えないのだ。そして、義弟は学校(恐らく中学)を中退してしまう。夫婦揃って酒を飲み、ルバラン(断食明け大祭)に夫は参加しない。お金は常に不足しているし、将来に夢や希望があふれているとは言い難い。当然、貧しいながらも幸せな日々という型通りのイメージには全くはまらない。しかし「どこか楽天的」に明るいために、お涙ちょうだいにもならない。ある意味、淡々と貧しい家庭の毎日が映し出されていく。

人口ボーナス期に入った成長市場、ジャパニメーションや漫画が浸透する親日国家、ムスリム16億市場への玄関口。12月からのビザ免除も相まって、日本のメディアから流れるインドネシアのイメージは経済を中心に、「発展する新興国」そのものだ。しかし、この家族のようにそのイメージから零れ落ちる人たちが確実に存在している。

すべて邦題および日本公開年。原題およびインドネシア公開年は「Langitku Rumahku(89)」「Daun di Atas Bantal(98)」「Ada Apa dengan Cinta?(02)」「The Raid(11)」「KILLERS(14)」「The Raid2: BERANDAL(13)」「The Act of Killing(12)」

"お隣さん"を知るために…
インドネシア人の日本への観光ビザが昨年12月から免除になっている。実際には一定の条件があるため、正直なところ実質的には全く「ビザ免除」と言える状況ではない。それでも、名目上は「ビザ免除」である。2013年から実施されているマレーシア人のビザ免除と相まって、日本を訪れるイスラム教徒(ムスリム)の数は飛躍的に増えている。円安の影響を受けて、欧州からのムスリム観光客も増えている可能性は高い。そして、東京オリンピックに向けた海外旅行客誘致の流れの中で、急速にムスリム観光客の存在がクローズアップされているように思う。ハラル(あるいはハラール)という言葉が紙面やネットを賑わすようになったのはその証拠だ。もちろんこのような来訪者だけではなく、ムスリムの留学生も一定数存在している上、当然ながら定住者も増加している。都市部ではムスリムは知らない遠い国に住んでいる人ではなく、隣の家のお客さんくらいの距離感にはなってきているように思う。

そこで気になるのは、隣の家のお客さんがどんな人かということ。見た目の違うあの人は、何を食べているんだろう?いつまでお隣にいるのかな。なんか朝早く変な声が聞こえるけど、何をしているのだろう?知らないことだらけのお客さんは、挨拶を交わすあるいは世間話をできるようなご近所さんになれるかな。そんな関係性を探っているところに、世間を騒がす凶悪事件の犯人が隣のお客さんと似ていることに気づいてしまった。さて、どうしましょう。

多分、一番簡単な方法は隣のお客さんに帰ってもらうことだ。少なくとも自分の視界から恐ろしげなよくわからない存在が消えることで、安心感は得られるだろう。そんな安心感が欲しい人から嫌がらせを受けたモスクもあるようだ。(「全国のモスク7カ所に嫌がらせ 電話で「出て行け」」東京新聞:2月23日) しかし自分の視界からその存在が消えても、隣の町、県には同じような人がいるかもしれない。もし日本国内から全ムスリムを排除するならば、その状態を継続するために日本は鎖国をするしかないだろう。観光客もお断り。少し考えればわかる。「帰ってもらう」は簡単そうだが現実的な方策ではないし、国際社会の一員としてあまりに身勝手だ。

しかし、どう見てもあの犯人たちと隣のお客さんは同じに見える。同じに見える以上、安心できない。でも同じに見えるのは実際に同じだからなのか、自分が違いを見分けられないからなのか。日本人は中国人・日本人韓国人をある程度見分けられる(聞き分けられる)が、西洋人からは全て同じに見えるらしい。犯人たちと隣のお客さんが同じに見えるのは、そういうことかもしれない。見分けるためにはまず「知ること」が必要だ。玉石混合、下手をすれば武闘派/過激派の広報サイトにぶち当たってしまうようなインターネットより、この場合は「百聞は一見にしかず」が大事になる。

人質事件以降、都内最大級(そして日本最大級)のモスク、東京ジャーミィにはそんな見学者が大勢訪れている。職員の説明を聞くうちに、知らないことだらけの隣のお客さんの生活がおぼろげに見えてくるだろう。完全に納得はできなくとも、隣のお客さんは得体のしれない恐ろしい存在ではなく、自分と同じ血の通った人間であることがわかるはずだ。お土産の一つも買って帰り、テレビの横にでも置いてみる。凶悪事件のニュース映像から視線をお土産に移す。そうすることで、ニュースの犯人と隣のお客さんが重なることはなくなると期待したい。

 

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